”明治維新から150年となるのを前に、近代から現代まで日本の歩みを象徴する現場を政治学者姜尚中(カンサンジュン)さんが歩き、この国の「過去・現在・未来」を思索する”と銘打たれた「姜尚中 思索の旅『1868~』」という連載記事が、熊日新聞でも読むことが出来ます。
秋田県の大潟村を姜氏が訪れた『第5章「崖っぷちの農」 銑ぁ戮鯑匹澆泙靴拭
これまで連綿と流れていた「農は国の本(基)」という農本主義がいつの間にか薄れ、日本の農業は生産性の拡大と大規模化、効率性と収益性といった市場原理に煽られ、競争力強化の一点に向けて走りだしつつあります。
そのような変化のキッカケになったのが2018年産米をめどにした減反政策の廃止だとし、「減反」と抱き合わせで「保護」されてきた日本の農業が、国の保護膜を取り払われ、「自由化」へと舵切りせざるをえなくなりつつあることを意味していると姜氏は云います。
全国に発信された大潟村の減反騒動、その渦中であった6期22年間に村長を務めた宮田正馗氏と面会するなどして、日本農政の歴史とその問題点を振り返っています。
1968年、全国38都道県から農業従事者やサラリーマン、自営業者や退職者など諸事情バラバラの、ただ自分の目指す農業をしたいという希望で一致していた入植者たちによって、ゼロベースから創られた新しい村、それが大潟村でした。そこには農家が作りたいものを作って自由に売る、そうした農業の「自由化」に前向きなかなりの数の入植者が集まっていました。
1970年、減反が始まると、全国的には、宮田氏の云う「村八分農政」によってそれは推し進められましたが、大潟村では「自主作付け派」が多数を占めることになりました。
国の強力な指導による「青刈り」が行われ、入植時の契約をタテにそうした農地の買い戻しを国は突きつけてきます。減反遵守と自主作付けの対立、それは共同体的な締め付けやしがらみから自由な大潟村だからこそ、ハッキリと外にも分かるほど顕在化しました。
国策民営によって誕生した大潟村は、国の全面的なバックアッブなしには存続しえません。その点を受け入れつつ、大潟村は発展を図りました。
ここで登場する以下の一文は、若干の補足が必要かと思われます。
「このしたたかな宮田村政の成果のひとつが、1990年に実現した、入植者に配分した15任鯏昇遒砲かわらず全面水田とみなす決定だ。」
大潟村の資料によると、1973年に営農計画を 「当分の間、田と畑の面積をおおむね同程度とする15ha規模の田畑複合経営を行うこと」に変更し、1975年の営農から田畑複合経営が始まったと記してあります。
当初1戸当たり10ha規模の水稲単作経営を行っていた入植者に、畑5haを追加配分して1戸当たりの規模を15haにしたのです。
しかし、減反とは水田を転作することなので、いくら畑地が増えてもそれはカウントされません。そこで、その畑地も含めた15覗瓦討鮨綸弔箸澆覆携作を減反にカウントするようになったのが1990年ということになります。
1995年、食糧管理法が廃止され新食糧法が制定され、2004年には、その食糧法に大幅な改正がなされ、米の自由な作付けと販売が認められていきます。
大潟村の減反問題が呼び水となって、「管理された自由化」あるいは「黙認された自由化」と呼べるような国による「自由化」に向けたさじ加減が変化していったとも姜氏は書いています。
TPPをはじめ「自由化」のうねりが日本の農業を洗うとき、日本の農業に未来があるのか。あるべき農業像、中核となる基幹的農家の基準とは何なのか。そして人材を輩出するためにどんな制度設計が必要なのか。
それは、農政にとどまらず、日本の国民の問題でもある。この意味で、大潟村の将来は、日本の農業を占うリトマス紙となっているのであると姜氏は締め括っています。
秋田県の大潟村を姜氏が訪れた『第5章「崖っぷちの農」 銑ぁ戮鯑匹澆泙靴拭
これまで連綿と流れていた「農は国の本(基)」という農本主義がいつの間にか薄れ、日本の農業は生産性の拡大と大規模化、効率性と収益性といった市場原理に煽られ、競争力強化の一点に向けて走りだしつつあります。
そのような変化のキッカケになったのが2018年産米をめどにした減反政策の廃止だとし、「減反」と抱き合わせで「保護」されてきた日本の農業が、国の保護膜を取り払われ、「自由化」へと舵切りせざるをえなくなりつつあることを意味していると姜氏は云います。
全国に発信された大潟村の減反騒動、その渦中であった6期22年間に村長を務めた宮田正馗氏と面会するなどして、日本農政の歴史とその問題点を振り返っています。
1968年、全国38都道県から農業従事者やサラリーマン、自営業者や退職者など諸事情バラバラの、ただ自分の目指す農業をしたいという希望で一致していた入植者たちによって、ゼロベースから創られた新しい村、それが大潟村でした。そこには農家が作りたいものを作って自由に売る、そうした農業の「自由化」に前向きなかなりの数の入植者が集まっていました。
1970年、減反が始まると、全国的には、宮田氏の云う「村八分農政」によってそれは推し進められましたが、大潟村では「自主作付け派」が多数を占めることになりました。
国の強力な指導による「青刈り」が行われ、入植時の契約をタテにそうした農地の買い戻しを国は突きつけてきます。減反遵守と自主作付けの対立、それは共同体的な締め付けやしがらみから自由な大潟村だからこそ、ハッキリと外にも分かるほど顕在化しました。
国策民営によって誕生した大潟村は、国の全面的なバックアッブなしには存続しえません。その点を受け入れつつ、大潟村は発展を図りました。
ここで登場する以下の一文は、若干の補足が必要かと思われます。
「このしたたかな宮田村政の成果のひとつが、1990年に実現した、入植者に配分した15任鯏昇遒砲かわらず全面水田とみなす決定だ。」
大潟村の資料によると、1973年に営農計画を 「当分の間、田と畑の面積をおおむね同程度とする15ha規模の田畑複合経営を行うこと」に変更し、1975年の営農から田畑複合経営が始まったと記してあります。
当初1戸当たり10ha規模の水稲単作経営を行っていた入植者に、畑5haを追加配分して1戸当たりの規模を15haにしたのです。
しかし、減反とは水田を転作することなので、いくら畑地が増えてもそれはカウントされません。そこで、その畑地も含めた15覗瓦討鮨綸弔箸澆覆携作を減反にカウントするようになったのが1990年ということになります。
1995年、食糧管理法が廃止され新食糧法が制定され、2004年には、その食糧法に大幅な改正がなされ、米の自由な作付けと販売が認められていきます。
大潟村の減反問題が呼び水となって、「管理された自由化」あるいは「黙認された自由化」と呼べるような国による「自由化」に向けたさじ加減が変化していったとも姜氏は書いています。
TPPをはじめ「自由化」のうねりが日本の農業を洗うとき、日本の農業に未来があるのか。あるべき農業像、中核となる基幹的農家の基準とは何なのか。そして人材を輩出するためにどんな制度設計が必要なのか。
それは、農政にとどまらず、日本の国民の問題でもある。この意味で、大潟村の将来は、日本の農業を占うリトマス紙となっているのであると姜氏は締め括っています。